アメリカ軽音楽の巨匠 ルロイアンダーソン(4)
シリーズでお送りしているルロイアンダーソンも(4)まできました。
今回で彼の人生を辿るのは最後になります!
前回までの記事をお読みでない方は、是非こちらからご覧くださいませ。
1950年代〜
人気作曲家へ
前回はSleigh Ride(そりすべり)のお話をしましたが、
ルロイは他にもBelle of the Ball(舞踏会の美女)、忘れられし夢、セレナータ、プリンクプレンクプランク、タイプライター、ワルツィングキャットなど数々の曲を生み出し、
1952年発表のブルータンゴはNo. 1ヒットとなりました。
こうして彼はアメリカの音楽界で揺るぎない地位を確立していったのです。
その後もミュージカル曲を作ったり、テレビやラジオの曲なども手がけるなど、大いにアメリカ国民の間で親しまれ、その人気はやがて世界中へと広まりました。
66歳で亡くなる
ルロイは1975年、67歳の誕生日を迎える前にウッドベリーの自宅にて肺がんのため亡くなりました。妻のエリナは2014年(96歳で)、同じく自宅にて老衰のため亡くなっています。
ちなみにアンダーソン夫妻は生涯4人の子供を授かっており、今も親族の方が生きていらっしゃいます。
生粋のモダニスト
ルロイは1953年コネチカット州のウッドベリーに、その後の人生を過ごす家を購入しました。当時は人口2500人程度の小さな町だったようです。
建築家ジョセフ・スタインの設計したルロイの家は2018年、国家歴史登録財として指定されています。
20世紀半ばのモダンな建築で、偉大な音楽家が過ごした家ということもあり大変貴重な建物として一般公開されることもあるそうです。
アメリカ軽音楽の巨匠?
本ブログではタイトルに
この`アメリカ軽音楽の巨匠`というワード
を入れてきましたが、もちろん筆者が勝手に言っているわけではありません。
こう称したのは、スターウォーズシリーズやインディージョンーンズなど数々の名作映画音楽で知られるジョンウィリアムズなのです。
彼もまた、ボストンポップスオーケストラの指揮を務めていたりと通ずるところがありますね。当ブログでもいつか、詳しくご紹介したいと思います。
これについて書かれているリンクを貼っておきます↓
https://web.archive.org/web/20111005153032/http://leroyanderson.com/accolades.php
おわりに
いかがでしたか?
次回は彼の作品についてゆるゆるとお話しし、第一弾アメリカ軽音楽の巨匠 ルロイアンダーソン シリーズを締めくくりたいと思います。
お読みいただきありがとうございました。
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軍人? そりすべりは夏の曲? アメリカ軽音楽の巨匠 ルロイアンダーソン(3)
ルロイアンダーソン(3)ということで、シリーズも後半に入りました!
前回の続きに加え、今回は彼の代表曲にも少し触れていきます。
前の記事をお読みでない方は、是非こちらよりご覧くださいませ。
1940年代〜
陸軍入隊と結婚
前回記事で、
ルロイは陸軍にて通訳を務めたと書きましたように
1942年(34歳のとき)には陸軍に入隊していますが、
これに先立って10歳年下のエリナさんと結婚しています。
彼女はイリノイ州の生まれで、
父は弁護士、母は看護師だったようです。
エリナとルロイは、
ニューヨークにあるインターナショナルハウスで出会いました。
軍人としてのキャリア
1943年にルロイは国防総省からスカンジナビア軍事情報局長に任命されます。
しかしその一方で1945年にはプロムナードや、シンコペイテッドクロックを作曲したり、
ボストンポップスオーケストラで指揮をしたりと音楽活動も続けていました。
軍の中でも着実に地位を築き、大尉となったルロイですが、
ついに音楽の道に専念することを決心し
こうして1946年には陸軍を除隊しました。
そりすべりは真夏の曲?
ここから作曲家としての人生が本格的にスタートします。
1946年、ルロイたちは
コネチカット州ウッドベリーの小さなコテージで夏を過ごします。
これはどうやら第二次大戦後のアメリカで起こった深刻な住宅不足があったためらしいです。仮住まいという感じですかね。
そこでは熱波と干ばつに見舞われ、
まあ暑いったらない(-.-;)y-~~~
ということで冬の景色を心に思い浮かべたわけです。
ここから生まれたのが Sleigh Ride(そりすべり)でした!
余談ですが、
この1946-47年の冬にはニューヨークで記録的な大雪が降ったそうですよ
ルロイは1948年にこのSleigh Ride(そりすべり)を完成させます。
初演はもちろんボストンで行われました。
当時からデパートなんかでこの曲が流れていたみたいです。
今でも愛され続けるルロイアンダーソンの代表曲でもありますが、
世界中でクリスマスソングとしても親しまれています。
作曲者はクリスマスを意図したわけではないんですけどね笑
また歌詞もつけられていて、日本語の歌にもなっています。
この歌詞からもクリスマス要素は見当たりません!
でも、
クリスマスにすごくピッタリな曲調ですよね。
筆者は幼稚園の頃に、歌詞付きの曲をオケよりも先に知りました!
オケも歌もどちらも本当に大好きな曲ですが、
やはりオーケストラの世界観はたまりませんね。
おわりに
ルロイアンダーソン編(3)はいかがでしたか?
次回もどうぞお楽しみに!
そりすべりの日本語歌詞付きはこちら↓
言語学者!?アメリカ軽音楽の巨匠 ルロイアンダーソン(2)
シリーズ第一弾 ルロイアンダーソン(2)ということで
お送りしていきます。
はじめに
前回は、ルロイがハーバード大学に
奨学生として通い出すところまでお話ししましたが、
本シリーズでは、誰もが一度は聞いたことのある
「Sleigh Ride(そりすべり)」「タイプライター」
「シンコペイテッドクロック」などを作曲した
20世紀のアメリカの音楽家 ルロイアンダーソンについてご紹介しています。
前回記事をお読みでない方は、ぜひこちらからご覧くださいませ。
1920年代〜
音楽家?それとも…?
1925年9月に大学へ入学したルロイは、
1929年に音楽で学士号を取得します。
しかし1930年に修士号を取得し卒業する前に、
ヨーロッパのナディア・ブーランジェ(1887ー1979)の元で研究するための奨学金を、
大学から断られてしまうのです。
音楽では食べていけない
と考えていたルロイは、提携の女子大
ラドクリフカレッジで音楽の講師を務めるなど
音楽の活動をする一方で、
1931年から1935年まで
ゲルマン語とスカンジナビア語の博士号を取得します。
言語学者としてのルロイ
彼は最終的に、母語である英語に加え
ドイツ語、フランス語、イタリア語、ポルトガル語
の計9ヶ国語に精通しました。
え〜〜ハイスペック過ぎ〜〜〜(・∀・)
本人は音楽のキャリアに全く期待していなっかたそうで、
実際、語学教師になろうとしていました。
ちなみにもう少し時代は進みますが、
1942年 第二次世界大戦時にはその言語能力を軍部に買われ
米陸軍対敵諜報部隊でアイスランド語の翻訳、通訳を務めています。
ついに転機が訪れる
ではでは時代を戻して
1936年、
ルロイは院生で大学バンドのディレクターを務めているときボストンポップスオーケストラのための編曲を依頼されます。
これをきっかけに彼の音楽人生は動きはじめます。
1938年、
ボストンポップスオーケストラは
ルロイの最初の作品である ジャズピッチカートを演奏し
すぐにヒットさせたのです。
楽団のディレクターであるフィードラーはすぐさま
ルロイに、さらなる作曲をすすめます。
そして翌1939年、ジャズレガートが誕生します。
こうして次々と名曲が生まれました。
2曲のURLです↓
https://youtu.be/x7gxXDto9vA ジャズピッチカート
https://youtu.be/z1IUoQrZICA ジャズレガート
おわりに
いかがでしたか?
「言語学者!?」 とタイトルに書きましたが、
筆者ははじめてこれを知ったとき、かなり衝撃を受けました
でも、たまにこういうのってあるんですよね。
医者であり作家などはそこそこ聞きますけど、
科学者であり音楽家なんてのも…!
いつかご紹介できればなと思います。
お読みいただきありがとうございました!
次回も続きからお送りします。どうぞお楽しみに!
ハーバード大出身!?アメリカ軽音楽の巨匠 ルロイアンダーソン(1)
はじめに
今回は第一弾 ルロイアンダーソン編の(1)
ということで、
まずは、
ルロイアンダーソンという
音楽家をご存知でしょうか?
そう!
運動会で聞くアレです!
テーテーテーテー
テレッレテテレレレ♪の人です!
↑
↑トランペット吹きの休日 という曲です
(伝わりましたか…?)
この曲の他にも、
ディズニーランドでもクリスマスの頃に流れる
「Sleigh Ride(そりすべり)」や、
「タイプライター」「シンコペイテッドクロック」など
一度は絶対に聞いたことのある、
大変親しみやすい曲の数々を生み出した作曲家です。
彼の生い立ちから見ていきましょう。
1908年〜
誕生
ルロイは1908年6月29日、マサチューセッツ州のケンブリッジに生まれました。
両親はスウェーデンからの移民だったそうです。
それでもって、友達には知られたくないことを話すときは兄弟や家族間でスウェーデン語を使ったのだそうです。
両親はどんな人?
母アンナは教会のオルガニストでしたが、
オルガンの他にピアノやギターを弾いたりと、秀でた音楽の才能がありました。
ちなみにアンナの父は、楽器関連の木工も扱う家具職人だったそうです。
ルロイはこの母から幼い頃よりピアノを教わっています。
一方、
郵便局で働いていた(Wikipediaより)ルロイの父ブロアも、
これまた音楽好きな人だったのだとか。
趣味でマンドリンやバンジョーを嗜んだそうです。
また、両親ともに歌うことも大好きだったらしいですね。
こんな風に音楽に溢れた家庭で育ち、
やがてルロイも
と様々な楽器を演奏するようになりました。
1920年代〜
ルロイの学生時代
1921年、
ルロイはケンブリッジグラマースクール
(グラマースクールは中等教育の機関)
を卒業した後、
ケンブリッジ高校とラテン語学校に通います。
なんと在学中は、3年連続で卒業式のための音楽を作っていたそうです‼︎
高校のときから作曲していたのですね!
いや、もっと前からなのかな?
また当時、ルロイはニューイングランド音楽院にてピアノも学んでいます。
ハーバード大に入学⁈
この頃両親は、
ルロイと彼の兄弟であるラッセルに
ルロイにハーバード大学のマーチングバンドで
トロンボーンを演奏することを望んだのだそうです。
そして、
なんと2人ともその両親の願いを実現し
ルロイに至ってはマーチングバンドで演奏するだけでなく、
バンドのディレクターにまでなっちゃいましたからね笑!
この兄弟強すぎる、、、
おわりに
第一回はいかがでしたか?
次回はこの続きからお送りします。お楽しみに!
参考 http://www.leroyandersonfoundation.org/cambridge.php
現在アメブロの方にも同記事を掲載しているのですが、
今後はこちらのはてなブログの方のみに掲載します。
ブログ初心者のため不慣れではありますが、
定期的に投稿いたしますのでよろしくお願いします。